閔妃は、高宗の妃で、中国系に近い一族の閔氏の出で、幼名はチャヨンとも伝えられる。閔氏は、中国を宗主と仰ぎ頻繁に訪問し特権を与えられており、一族の規模も大きく、朝鮮最大の領地を持っていた。
両班による勢道政治は、王権の弱体化と王朝の混乱を生じさせた。しかし、1863年に、第26代王高宗が11歳で即位すると、実父の興宣君が、大院君として摂政の地位に就いた。興宣が摂政になると、勢道政治を排し、党派門閥を問わず人材を登用し、汚職官僚を厳しく処罰するなどして、朝廷の風紀の乱れをただす事に力を入れた。また税制を改革し、両班にも税を課す事とし、平民の税負担を軽くするなどの改革を行った。