東日本大震災 半鐘の音ともに波に消えたフーさん

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==シナリオ==

あれから5ヶ月、まだ町は瓦礫さえ片付いてはいなかった。屯所があった場所の近くの小高い丘の上にある神社の境内だった。体がフワフワ浮かんでいるようで、「あー、俺、やっぱり死んだんだな」と思った。

あの強い揺れのあと、すぐに車で屯所に駆けつけた。消防団の仲間と手分けして、防潮堤の水門を閉めに向かった。水門を閉め、海を見るとこれまでに見たことがないほど海の水が引いて、ただ事ではない。

それでも、チリ地震津波のときの津波は1.5mほどで、防潮堤は約6mの高さがあった。そうやすやすと防潮堤が破られるとは思っていなかった。「少し甘かったんだなや」フーさんは苦笑いをした。

すぐに屯所に戻ると、消防無線は、すでに近くに津波が到達していることを告げていた。しかし地域住民に呼びかける防災無線もサイレンも停電で使えなかった。ふと、今は使っていない古い半鐘があることに気がついた。事態は切迫していた。

「やっぱり、俺がやるしかなかったんだべよ」

フーさんは、仲間の消防団員に

「よし、早く行げ。みんなを避難させろ」

と指示して、自分は半鐘を片手に屯所の2階に上がっていった。

フーさんの両親はすでにこの世には無く、妻子もいなかった。身内と言えるのは消防団の仲間であり、屯所は我が家も同然だった。他の仲間には、妻も子もある。自分がやるしかないと思った。2回の窓をすべて開けて、半鐘を吊るして打ち鳴らし始めた。

「カンカンカン カンカンカン」

「別に、特攻隊のようなつもりではながったんだよ」

フーさんは、6mの高さの防潮堤を、津波が乗り越えてくるとは思っていなかった。しかし防潮堤の向こう側では、次第に海が盛り上がり始めていた。

「カンカンカン カンカンカン」

テンポが速くなるのを自分でも感じた。

遠くに白波が見えた。ひときわ大きい波だった。海は大きく盛り上がり、一気に防潮堤を乗り越えた。フーさんは、半鐘をはずし、古い火の見櫓にのぼろうかと考えたが、もうそんな余裕はなかった。屯所の周りには波が押し寄せていた。半鐘をたたき続けるしかなかった。

「カンカンカン カンカンカン」

屯所に何かがぶつかったらしく建物がゴツンゴツンとゆれた。水が階段を上ってくる。恐ろしくもあったが、血気盛んな若い時期の熱い血が駆け巡るような爽快感もあった。

「やるならやってみろー」

叫びながら半鐘をたたいた。

「カンカンカン カンカンカン」

神社の境内には、他の死んだ10人の仲間が集まっていた。

「おー、おめらもこっちに来てたのが」

聞けば、みんなそれぞれに役目と誇りをまっとうしたようだ。日が暮れ始めていた。あちこちに迎え火がたかれ始めた。

「ほれ、かあちゃんや息子たちが待ってるから早ぐ行ってやれ」

仲間を急かして家族のもとに追いやった。フーさんは一人残り、神社の境内からかすかに聞こえる波の音を聞いていた。すると、屯所のあった場所にポッと火が灯った。だれかが自分のために迎え火をたいてくれたようだ。

東日本大震災-パワーショベルのおやじ

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【震災動画シナリオ】

==パワーショベルのおやじ==

僕の住む町の多くは瓦礫の山になってしまった。

幸い、僕の家は半壊状態だったが流されず、家族もみな無事だった。

地震の翌日からはとりあえず家族が住めるように片付けをして、3日目からはお父さんと僕は手分けして、親戚や友人の消息を尋ねに町へ出た。

道はがれきにふさがれ歩くこともままならず、それでも思い出となってしまった町の様子を思い起こしながら進んでいった。町のあちらこちらで、瓦礫を手でどけながら家族を探しているのだろう人たちがいたが、その作業はなかなかはかどらないようだった。

途中、小さなパワーショベルを動かしている土建屋のおやじがいた。その家の家族と一緒に瓦礫をどかしていた。小さいとはいえそこはさすがにパワーショベルだ、人の手でどけられない家の梁をどかした。家の人が「いたぞ!ばばちゃんだ」その家のおばあさんが見つかったようで、その家の人は瓦礫の下に飛び込むようにもぐりこんだ。

みんなで、ようやくの思いでおばあさんを引っ張り出した。すでになくなっており、体は泥だらけで着ているものはぼろぼろだった。土建屋のおやじは、パワーショベルの座席から、飲料水のペットボトルを持ってきて、その家の人に「これで顔だけでもきれいにしてやらいん」と言って差し出した。首にまいた汚いタオルで、寒い日なのにやたら顔の汗をぬぐっていた。今思えば、泣いていたんだと思う。

家の人は、おやじに手を合わせてお礼を言っていたが、「ばあちゃん早くきれいにしてやらいん」とだけ言って、おばあさんに手を合わせ、道の瓦礫をどけながらごろごろとパワーショベルで進んでいった。

最寄の避難所に行くと、友人はとにかく無事だった。何人かの学校の友達とも会うことが出来た。その避難所でパワーショベルのおやじの話をすると何人かがそのおやじを知っていた。

この町の小さな土建屋のおやじで、家も事務所も完全に流され、事務所にいた奥さんも行方不明だという。昨日からかろうじて残ったパワーショベルを動かして瓦礫を片付けていると云う。夜は、奥さんが帰ってくるかもしれないと、流された事務所のところで、パワーショベルの中で寝泊りしているらしい。

その夜、家に帰りその話を母にすると、その親父は人付き合いが悪かったらしく、あまり良くは思っていなかったようだが、それでも翌朝「これ親父さんに持っていってあげな」と、まだ温かい握り飯と、ポットに入れた味噌汁を持たせてくれた。

僕は、すぐにあのおやじの事務所があったところに行った。おやじはパワーショベルの点検をしているようだった。「これ、母ちゃんがよこした」といって握り飯とポットを差し出した。一瞬けげんな顔をしたが、手を合わせて受け取りうまそうに握り飯にかぶりついた。

おやじが言うには、もう油がなくて、パワーショベルを動かせるのもこの日が最後だという。おやじは握り飯を食べると、またパワーショベルでごろごろとがれきの町に入っていった。

僕は、友達のいる避難所に行ってこのことを話した。友達は、「ここにはいっぺー人がいるから、なんとかなるかもしんねー、話してみるべ」と言って、避難所のみんなの前で大きな声で訳を話した。

すると、

「浜に、自衛隊の基地のドラム缶がいっぺーながれついているぞ」「おれのとこの軽トラまだ動くから運ぶべ」

「しかし、自衛隊のもの勝手に持ってきたらまずいべ」

「かまね、かまね、こんなときだ」

「区長さんに話通して後からでも許可取ればいいべ」

僕は、いままでこれほど町の大人たちが頼もしく思えたことはなかった。大人たちは、すぐに手分けして動き始めた。

翌日、どうなったか気になって、がれきの町に向かった。するとそこには2、30人の人たちが、パワーショベルを中心に動き回っていた。がれきの下からは次々と行方不明者が見つかった。昨日はうれしかったのだけど、やはり涙が出てくる。おやじも同じなんだろう、きたないタオルでやたら顔をふきまくっていた。

その2、3日後に、自衛隊の救援隊が重機とともに町に来て、瓦礫の片付けは進み始めた。その後あのパワーショベルのおやじは、非難住宅の建設現場で見かけた。やはり、あの小さなパワーショベルをごろごろ動かしていた。

僕は、次の年工業高校の土木科に合格した。

東日本大震災-怒り、祈り、鎮魂 瓦礫の中の春

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震災の1か月ほど後、南三陸町と女川町に知人を慰問に出かけ、その時の写真で作った動­画です。2015/03/11に合わせてリニューアルしました。

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震災の日から1ヶ月以上を経過しているが、宮城県の女川、雄勝、南三陸町は未だ瓦礫の中にあった。 その被害は余りに大きく、広範囲で、東北の沿岸地域の多くは、復旧はおろか、瓦礫の撤去も進んではおらず、ようやく道が開かれ、瓦礫の撤去が始まったところだった。

これらの地域では、大地震と大津波から助かった命も、援助の手も届かないうちに、春とは名のみの寒さの中で、低体温で亡くなった方も多い。それでもようやく援助の手も入り、春の暖かさが訪れ、瓦礫の荒野にも花が咲き始めていた。

大震災を生き延びた方々は、灯油も水も無い中、沢の水を汲み、山で薪を広い、食べ物を分け合い、劣悪な環境の中で身を寄せ合い寒さをしのぎ春を待った。

かつては失われつつあった地域のコミュニティはよみがえり、試行錯誤の中で役割分担が生まれ、全てを失った方々ではあっても、それぞれを気遣う中に、避難所の中の様々な小さな出来事で笑いが生まれている。

人間とは図太いもので、何も無い、全てを失った中でも笑いが生まれる。何の根拠が無くても希望は持てるのかもしれない。

瓦礫の荒野を見渡すことが出来る避難所の丘には、何事も無かったように桜の花が咲いていた。人々の生活を根こぞぎにした自然は、その瓦礫の中に花を咲かせている。

恨みに似た気持ちを抱きながら、その桜の花と背後に広がる瓦礫の野原に心の中で手を合わせ、犠牲者の冥福と、この地に希望が少しでも早く開くことを祈った。

東日本大震災-怒り、祈り、鎮魂 人間は傲慢だったかもしれない

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あの大震災の2週間ほど後に作成したものを、震災4年目の2015/03/11に合わ­せリニューアルしました。

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すでに震災の日から12日経過している。震災の日から毎日遠くに聞こえていた空気を切り裂くような緊急車のサイレンの音も、今は聞こえず、それでも時折、自衛隊の災害援助のヘリコプターが低空を飛んでいる。

多くの方々が亡くなり、消息も知れない方々も未だ多い。被害の全貌が少しずつわかり始め、それに伴い、不明者の安否もわかり始め、私の知り合いの、南三陸町や石巻の方とも連絡がとれた。それでも未だ多くの方々の消息は不明である。

しかし、福島県浜通り、及び宮城県、岩手県の沿岸部の被害は余りにも甚大だ。それでも壊滅的な被害を受けた地域の方々の中には、その地を離れず、復興を誓っている方々も多い。

私も、みちのくを愛するものとして何をなすべきなのか、何ができるのか、怒りにも似た気持ちの中で考えていた。それが、先日のニュースに、自宅を失い、車の中で寝泊りしながら、瓦礫の中でヘルメットを被り、海に流された軽油のドラム缶を集め、自分で軽油を精製し、重機を動かし地域の復興を始めた土建屋さんが紹介されていた。そう、自分のやれることを、全力でやれば良いのだ。

商店なら、全力で商品を調達し復興すれば良い。床屋さんなら、ハサミ一つで営業を始めれば良い。建物としての店舗など、場合によってはなくても良い。地域への愛情と、それを共有する心さえあれば、時間はかかっても必ず復興できるという確信を、テレビで見た土建屋さんは教えてくれた。

逆に、これはある意味でチャンスではないかとすら思うようになった。これまで、ともすれば地域のプライドが失われ、地域への愛情が共有できなくなりつつあることを危惧し、地域の商店街がすたれ、地域のコミュニティが失われつつあることを危惧していた。それはこれからしばらくの間、大いに必要とされるだろう。

また、壊滅的な被害を受けている原発を見れば、原発に代表されるグローバリズムが、いかに危ういものなのかも垣間見た気がする。その意味で、福島の原発は、バベルの塔だったのかもしれない。

これからは、恐らく今までのようにジャブジャブ湯水のようにエネルギーを浪費することはできないだろうし、そうさせてはいけないと感じる。何らかの形で、産業構造を変化させる必要があると思われ、それは、それぞれの地域がかつては持っていた経済圏とコミュニティを復活させるチャンスなのかもしれないと思った。

東日本大震災-怒り、祈り、鎮魂 大津波に飲まれた氷上太鼓

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「みちのく壁新聞」の原点です。

4年前、震災10日後の3月21に、祈りながら、唸るようにして作った初めての作品です。

原点をわすれないためにリニューアルアップしました。

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私の好きなみちのくを、未曾有の大災害が襲った。東北地方の太平洋沿岸は壊滅的な被害を受けた。震災と大津波から10日たった今も、被災地の方々は、きびしい生活を強いられている。

2年ほど前、岩手県の陸前高田市を取材に訪れた。そのとき、高田松原近くの道の駅に車を停めて一休みしていたとき、近くの「太鼓館」で、「氷上太鼓」を練習しているグループに出会い、取材させていただいた。諸々の理由から、紹介できなかったが、このような形で紹介することになろうとは、そのときは夢にも思っていなかった。活き活きと氷上太鼓を演奏していた方々はご無事なのだろうか。陸前高田市の瓦礫の市街地の写真を見て、怒りに似た感情がこみ上げてくる。

ほんの2ヶ月ほど前には、宮古、大船渡、釜石も訪問した。また1ヶ月ほど前には浪江、双葉、大熊、南相馬など福島県の浜通りも訪れた。どの地でも、名も知らぬ善良な地域の方々にお世話になった。かろうじて連絡先を伺っていた方々に電話をしてみても、携帯電話は電源が入っておらず、固定電話は断線しているようだった。

幸いなことに、このサイトを管理する「ミヤガク出版」は被害は比較的軽微で、震災の4日後には電気も復旧した。しかしそれでも、ガソリンも無い中、自転車で毎日の食料を調達する日々で、被災者や犠牲者のために、このサイトは何ができるのか、怒りにも似た感情の中で、祈りながら考えている。

今日は3月21日、彼岸である。墓前に上げる生花も手に入らなかったが、わずかな庭の花と、川岸の梅の花を手折り、墓石が折り重なるように倒れている、父の眠る墓地に出向いた。明るい春の日差しの中、かろうじて立っていた父の墓石に手を合わせると、得体の知れない感情がこみ上げてきて、しばし涙が止まらなかった。

電話線のつながっていない「風の電話」

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震災から3年で一万人が訪れる「風の電話」、

多くの方々が、突然失われた命と話をし、ボックス内に悲しみを置いて行っているようだ。

いつか、失われた命に、新しい命や復興の、幸せを伝えることが出来る日がくることをお祈りします。

「トモダチ作戦」の裏側で日本への攻撃を警戒した米軍!

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大震災の際の、アメリカ軍の「トモダチ作戦」の裏側で動いていた、日本国防上の重大な「支援」。

あの時、どれだけの日本人が、他国からの「侵攻」を想定しただろうか。

考えてみれば、日本の周辺国家は、日本の地震や津波被害を喜ぶような、理性的とは言いがたい国があり、万一の事態としてありえない話ではないのが現実だ。