南北両国は、互いに朝鮮半島全土を領土であると主張、北朝鮮の金日成首相は、「国土完整」で南北統一を訴え、他方大韓民国の李承晩は、「北進統一」を唱え、互いに互いを併呑しようと考えていた。この、左派と右派に分かれ力で互いをねじ伏せようとするところに当然のように起きたのが朝鮮戦争であり、そしてそれは同じ朝鮮民族同士の、果てしない殺戮につながっていった。

大韓民国には、アメリカ軍が駐留していたが、アメリカ政府は、西太平洋の制海権には強い意欲を示していたが、台湾やインドシナ、朝鮮半島への言及はなかった。北朝鮮の金日成は、これを「アメリカにとって南朝鮮は関心がない」と受け取り、ソ連や中国に働きかけ、南進を承諾させた。

開戦直前の南北の軍事バランスは、北が有利だった。韓国軍は、総兵力10万6000を有していたが、北が多数送り込んでいたスパイや工作員、それらによるゲリラ攻撃などに労力を割かれ、訓練は不十分だった。また、米韓軍事協定により、重装備はほとんど施されておらず、戦車なし、砲91門、迫撃砲960門、練習機22機を有するのみだった。

これに対して、北は総兵力19万8000、ソ連製を中心とした戦車240輌、砲552門、迫撃砲1728門、イリューシンやアントノフなどのソ連製を中心とした航空機211機を有していた。また、中国人民解放軍で実戦経験を積んだ、朝鮮系中国人部隊が編入され始めて、優れた練度が維持されていた。

1950年6月25日、北緯38度線にて北朝鮮軍の砲撃が開始され、約10万の兵力が38度線を越えてきた。宣戦布告なしの奇襲攻撃だった。南側はこれを全く予想しておらず、農繁期だったこともあり、大部分の部隊は警戒態勢を解除しており、また、首都ソウルでは、前日に陸軍庁舎落成式の宴会があり、軍幹部の登庁が遅れて指揮系統は混乱した。このため李承晩大統領への報告は、奇襲後6時間経ってからだった。

6月27日には、北朝鮮軍はソウルに迫った。南北の軍事バランスに差がある中で、北朝鮮軍の奇襲攻撃を受けた韓国軍は、絶望的な戦いを続けた。ソウルに北朝鮮軍が迫る中、市民の移動計画はなく、なんらの対策も講じられなかった。国会では「100万のソウル市民とともに、首都を死守する」との決議がなされ、また軍は「ソウルを固守する」などと勇ましかったが、前線からは「持ちこたえることは難しい」という、悲観的な状況報告を受けていた。

27日早朝、李承晩大統領は、水原に遷都を決定しソウルから脱出した。このとき李承晩は、韓国内部からの反乱蜂起を恐れ、保導連盟員や南朝鮮労働党関係者の処刑命令を出し、これがその後、韓国人による韓国人の大虐殺を引き起こすことになる。この李承晩の脱出により、それまで楽観的な報道のみを聞かされていたソウル市民は、初めて首都の危機を知り、市民は避難路を求め漢江人道橋付近やソウル駅に殺到し、増援部隊がソウルに向かう中、市内は大混乱に陥った。

6月28日深夜、韓国軍の防御線が突破され、ソウルの最終防衛線は崩壊し、北朝鮮軍戦車が市内に突入した。この時、漢江橋はいつでも爆破できる準備ができていたが、まだソウル内には、第一線部隊が後退命令を受けないままで戦闘を継続中であり、また多くの市民も避難できずにいた。そのような中、現地の爆破指揮所には、漢江橋爆破命令が出され、命令系統の混乱もありそれは実行された。この時漢江橋では、陸軍憲兵と警察が整理にあたっていたが殆ど統制が出来ず、約4000名の避難民と車両が漢江人道橋を渡っていた。点火信号と同時に人道橋、続いて3本の鉄橋が爆破された。この漢江人道橋爆破事件によって、約500から800名と推定される避難民が犠牲となり、40余両の車両が大破し多くの人員が負傷した。

この事件で韓国軍主力は、ソウルの外郭防衛線において戦闘を継続中で厳しい戦いの中にあった。しかし橋梁が爆破され、また北朝鮮軍が市内に突入したことで、背後を遮断されたことを知った各部隊は、雪崩を打ったように後退を開始した。また1318両の車両や装備品、補給品が、漢江北岸に取り残され、これらは北朝鮮軍の手中に落ちた。

取り残されたソウル市民の多くは、この混乱の中で虐殺されたようだ。歴史の記録には残っていないが、わずかに残る写真などでそれが伺える。北は、名乗り出た韓国人共産党員を義勇兵として編入し、それに応じない者たちや、保導連盟員らは人民裁判にかけられ、次々に殺された。

これらのソウルでの北朝鮮軍による虐殺は、20万人に上るともいわれている。その後米軍や中国軍が参戦し、韓国側の反攻が始まるが、その中でも多くの虐殺事件が起きており、その殆どは、朝鮮人による朝鮮人の虐殺だった。