朝鮮統監府は、1909年に戸籍制度を朝鮮に導入し、李氏朝鮮時代の身分制度にも手をいれた。李朝時代の賤民は、牛馬とともに売買される対象であり、両班の「財産」であり、姓を持つことも許されず、戸籍には身分が記載され、賤民の子供は原則として賤民のままだった。統監府はこれを削除し、身分制度が緩和された。しかし、かつての両班は、彼らの「財産」が失われる身分制度の緩和には反発し、抗議デモを行ったりした。

朝鮮総督府は1910年から1919年の間に、土地調査事業を行い、土地の所有権を確定した。所有権が判然としない土地や、国有地、旧朝鮮王朝の土地などは、朝鮮総督府が接収し、朝鮮の農民に安値で払い下げられ、一部は日本人にも払い下げられた。この土地政策について、現代の韓国では「日帝による土地収奪」と捉える者もいるが、朝鮮総督府に接収された土地は、全体の3~10%ほどだったと考えられている。

日本統治下においては、日本内地に準じた学校教育制度が整備された。初代統監に就任した伊藤博文は、学校建設を改革の最優先課題とした。小学校も統合直前には100校程度だったのが、1943年には4000校を超えるまでに増加した。

1911年(明治44年)、朝鮮総督府は第一次教育令を公布し、朝鮮語を必修科目としてハングルを学ぶことになり、朝鮮語が科目として導入され、朝鮮語による文化活動も許容された。これにより朝鮮人の識字率は1910年(明治43年)の10%から1936年(昭和11年)には65%に上昇した。ただし、学校教育における教授言語は日本語であり、また、ハングルは李朝時代は事大先中国の漢文と比べて劣等言語として扱われており、日本を新たな事大先と考える朝鮮人たちは、積極的に日本語を受け入れる者も多かった。

併合以前の朝鮮半島は、インフラの整備も産業振興もほとんど行われておらず、見るべき産業も少なく、また労働力も豊富ではなかった。他の欧米諸国の植民地のように「収奪」できるものはなかった。しかし朝鮮半島は、ロシアとの対抗上、重要な地政学的な位置にあり、日本は朝鮮半島を植民地としてではなく、日本の一部として教養ある「日本人」を増大させることにより、国力を増加しようとした。日本は積極的にインフラへ投資し、朝鮮半島の経済および人的資源を育成しようと努めた。

この当時の韓国の様子を、在日アメリカ大使の妻で作家のイザベルアンダーソンは、次のように書き残している。
「寺内総督統治の下、韓国に多くの発展があった。これは、地元の人と征服者の間に摩擦無く成し遂げられるとは限らないが、その結果は確かに驚くべきものだと認めなければなるまい。政府は再編成され、裁判所が確立され、法が見直され、景気が良くなり、交易が増えた。農業試験場が開設されて農業が奨励され、内陸から海岸まで鉄道が敷かれ、港が浚渫されて灯台が建立された。韓国への日本の支出は毎年1,200万ドルに上っている。」

この日韓併合により、日本内地へ仕事を求め、多くの朝鮮人が流入した。このことによって、内地の失業率は上昇し、また治安も悪化した。このため、日本政府は朝鮮人を内地へ向かわせないよう、満洲や朝鮮半島の開発に力を入れ、内地への移住や旅行を制限するようになった。

また、朝鮮半島内でのインフラ整備に重点が置かれたため、まだ道半ばだった東北地方のインフラ整備に遅れが生じた。さらに、朝鮮半島から安価な米が流入したために、内地では米価の低下を招き、その影響で東北地方などの生産性の低い地域では農家が困窮する事態となっていった。