第一次世界大戦末期の1918年、米国大統領ウィルソンにより、”十四か条の平和原則”が発表された。これらのことから朝鮮人にも民族自決の意識が高まり、李光洙ら留日朝鮮人学生たちが東京で「独立宣言書」を採択した。これに呼応した、朝鮮半島のキリスト教、仏教、天道教の指導者たち33名が、3月3日の大韓帝国初代皇帝高宗の葬儀に合わせ行動計画が定められた。

高宗の死には、巷間、様々な風説がささやかれていた。息子が日本の皇族と結婚することに憤慨して自ら服毒したとも、あるいは毒殺されたなどといったものである。もちろんそのような事実はなかったが、日韓併合が朝鮮民族の悲運と重ねられ、ナショナリズム的な機運が民衆の中に高まった。

3月1日午後、京城中心部に33人の宗教指導者らが集い、「独立宣言」を読み上げ万歳三唱をした。この独立宣言書は、朝鮮半島の13都市に配布された。この宣言書は何よりも朝鮮が独立した国家であること、及びその国民である朝鮮人民が自由であることに重きを置いたものであり、そしてそれは「人類平等の大義」と「民族自存」という原理に基づくものとして捉えられている。この他、朝鮮という民族国家が発展し幸福であるためには独立を確立すべきこと、そしてそのために旧思想・旧支配層・日本からもたらされた不合理なものを一掃することが急務であることなどが骨子として書かれていた。

発端となった代表33人は逮捕されたが、数千人規模の学生が市内をデモ行進し、「独立万歳」と叫ぶデモには、次々に市民が参加し、数万人規模となったという。以降、運動は始め朝鮮北部に波及し、その後南部に及び、朝鮮半島全体に広がり、数ヶ月に渡り展開された。これに対し朝鮮総督府は、警察に加え軍隊も投入して治安維持に当たった。

運動は当初は平和的な手段によって行なわれていたが、次第にデモは激化していった。総督府側は憲兵や巡査、軍隊を増強し鎮圧をはかった。独立運動側では伝聞の情報として、7500名を超える犠牲者があったとされるが定かではない。しかしながら、いくつかの悲劇が発生したのは事実である。最も有名なのは堤岩里事件である。この事件は、日本人巡査殺害等の暴動を起こした30人程の堤岩里の住民が教会に集められ、一斉射撃の後放火焼殺された。この他にも同様の事件があったようだが、詳細は定かではない。

またこの運動中に、当時17歳の梨花学堂学生柳寛順(ユグァンスン)が逮捕、起訴され、懲役3年の有罪判決を受けて投獄され、獄中で死去した。この話は、彼女についての実際の記録はほとんどない中で、虚実ないまぜに国内に広まり子供向けの伝記にまでなった。後には「独立烈士」として顕彰され、韓国ではフランスの国民的英雄ジャンヌ・ダルクになぞらえ「朝鮮のジャンヌ・ダルク」と呼ばれるようになった。

朝鮮総督府当局による武力鎮圧の結果、運動は次第に終息していった。運動期間中に逮捕、送検された被疑者は約13000名であったが、他国の同様の事件と比較して、その処分は非常に軽かったといえる。有罪判決を受けた者は約4000名、首謀者ら8名は懲役3年、6名は懲役2年6ヶ月の刑で、内乱罪は適用されず、死刑や無期懲役になった者はいなかった。さらにその多くは、1920年の大赦令によりさらに刑期が半減された。

司直の手を免れた一部の活動家たちは外国へ亡命し、彼らの国内における独立運動は挫折した。その後、朝鮮半島の統治は、インフラの整備、産業振興、教育制度などが充実していくにつれ、落ち着いた統治が行われ、1945年の日本敗戦に至るまで大規模な運動は起こらなかった。