大韓民国成立直前には、韓国内は右派と左派が入り乱れ、国内は大混乱に陥っていた。特に済州島では左派の勢力が強く、李承晩らはアメリカ軍政庁と結び、右翼青年団体を済州島に送り込み警察組織を背景に島民の反乱組織の壊滅を図った。

1948年に入ると、南朝鮮は北朝鮮抜きの単独選挙を行うことを決断し、島内では単独選挙に反対する左派島民が4月、武装蜂起した。これに対して、韓国本土から鎮圧軍が派遣されることになった。しかし鎮圧軍内の共産党員が反乱を扇動し、これに多くの隊員が呼応し部隊ぐるみの反乱となった。反乱は1週間で鎮圧されたが、その事件処理での韓国政府の左翼勢力摘発は過酷を極め、反乱部隊に加えて、非武装の民間人8000名が殺害された。

済州島では、軍などにより、蜂起したものは弾圧された。人民遊撃隊の残存勢力はゲリラ戦を展開し、治安部隊は潜伏している遊撃隊員と彼らに同調する島民の処刑粛清を行った。これは、大韓民国成立後も継続して行われ、韓国軍は、島民の住む村を襲い、若者達を連れ出して殺害し、少女達は2週間に渡って輪姦、虐待され、最後には惨殺されたと言われている。このとき殺害された者は3万人におよび、最終的には島民の5人に1人にあたる6万人が殺され、島の村々の70%が焼き払われた。

また李承晩は、1948年12月、国家保安法を制定し、要監視対象者の教化と統制をおこなうために全国に「国民保導連盟」を組織した。この組織は、「大韓民国絶対支持」「北傀儡政権絶対反対」「共産主義排撃粉砕」などとし、共産主義からの転向を促進し、転向者の家族やシンパなどが登録された。登録すれば過去は問わないとし、また登録すると、仕事が紹介され、食料配給がスムーズに行われるなどしたため、単に食料目当てに登録した人々も多かった。また、警察や体制に協力する民間団体が左翼取り締まりの成績を上げるために無関係な人物を登録することもあったという。

1950年6月、朝鮮戦争が勃発し、北の朝鮮人民軍が電撃的にソウルに迫ると、李承晩大統領は、韓国内の共産主義者の反乱を恐れ、保導連盟員や共産党関係者をすべて処刑するよう命令を発し、自身はその日のうちにソウルを脱出した。韓国軍、警察は釜山まで後退する一方で、保導連盟に登録していた者たちを全国各所で虐殺した。また、保導連盟員は、侵攻してきた北朝鮮軍からは裏切り者とされ、粛清の対象となり虐殺された。これらの犠牲者の遺体は、排水溝や鉱山に埋められ、あるいは海に捨てられ、海上に投棄された遺骸のいくらかは対馬に流れ着き、日本人によって引き上げられ、対馬の寺院に安置された。

この一連の事件により、大量の韓国人が日本に密入国し、現在の在日韓国人の多くは、これに端を発したものが多いとされる。この事件では、少なくとも10万人から、遺族の報告書では約120万人が犠牲になったとされるが、公的には共産主義者によるものとされた。この一連の事件による犠牲者は、第二次世界大戦中の韓国民の犠牲者をはるかに上回るものだが、この事件に触れることはタブーとされ封印された。

長年「反共」を国是とした韓国では、これらの事件の責任の追及は公的にはなされなかった。虐殺実行者の軍関係者の幾人かが有罪の判決を受けたが、李承晩はすぐ恩赦を行い、その後昇進させた。事件を語ることはタブー視され、かつては、この事件を表に出す動きがあると政府から拘束されたりもした。そのため事件の詳細は未解明である。盧武鉉政権時の2006年、犠牲者慰霊祭に大統領として初めて出席し、島民に対して正式に謝罪し真相解明を宣言したが、その後の進展は見られない。

韓国紙の朝鮮日報などは、2007年の社説で保導連盟事件の調査を「過去史委員会による壮大な予算の無駄遣い」とし、真相究明への否定的な社説を発表している。また損害賠償の訴訟などでも、犠牲者遺族などが事件を表に出すことに対して韓国政府が圧力をかけ弾圧して来たことを勘案することはなく、その多くは時効として門前払いにしているようだ。

韓国が、客観的な証拠もない中での、虚実ないまぜの(嘘だらけの?)慰安婦問題や、強制徴用工での「謝罪と賠償」を求める強硬さと、この一連の、客観的な証拠も証言もある事件への対応とを見るとき、それは自ずからを省みることができない韓国民の民度の低さをあらわすものである。