韓国では、日本統治時代の真実を知っている方々は、すでに殆どが亡くなり、タナボタ独立以来の反日ウソ教育が完成し、多くの韓国民はそれらのウソを信じ切っているんだろうね。少し、真実を見る目を開いてみれば、それらは虚偽であることは容易にわかるはずなんだけど、真実はあまりに民族的につらいものがあり、信じたくもないんだろうけどね。

ここでは、日本敗戦後の「タナボタ独立」と、韓国ではタブーとなっている、朝鮮戦争が始まるまでの部分を、リニューアルアップするね。

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日本の敗戦が間近になると、連合国は、日本の統治下にあった朝鮮の、米英中ソ、4国による信託統治を決定した。ソ連軍は、米軍との秘密協定に基づき、日ソ不可侵条約を反故にして、終戦の6日前の8月9日、対日参戦し、朝鮮半島の北緯38度以北を占領した。

1945年8月15日に大日本帝国がポツダム宣言を受託するとすぐに、朝鮮半島に残っていた活動家により、朝鮮建国準備委員会が樹立された。しかしこれは、同年9月に上陸したアメリカ軍によって解体され、朝鮮半島南部はアメリカにより直接統治が実施された。

東アジアから日本の力が消えると、それまでは、おもてには出ていなかった、資本主義と共産主義の対立が、朝鮮半島で表面化し始めた。表面的にはアメリカとソ連の、38度線を境にした対立だったが、その裏は、中国大陸における国民党と中国共産党、そして蒋介石のもとにあった大韓民国臨時政府と、毛沢東のもとにあった抗日パルチザンの争いだった。

実質的にはアメリカ軍政下にあった南朝鮮では、李承晩、金九らは信託統治への反対を、呂運亨らは信託統治への賛成を打ち出して対立した。また南朝鮮の朝鮮共産党による朝鮮銀行100圓券の大量偽造が発覚し、アメリカはこれを機に、共産党を非合法化した。

1947年、国連は南部単独での総選挙の実施を決定、翌1948年、南部単独で初代総選挙が実施され、制憲憲法を経て李承晩初代大統領のもと、同年8月、朝鮮半島南部を実効支配した大韓民国が建国された。その翌月の9月には、北部は、金日成首相のもと、朝鮮民主主義人民共和国として独立した。

南北両国は、互いに朝鮮半島全土を領土であると主張、北朝鮮の金日成首相は、「国土完整」で南北統一を訴え、他方大韓民国の李承晩は、「北進統一」を唱え、互いに互いを併呑しようとし、その後の1950年6月に朝鮮戦争が勃発することになる。

朝鮮半島北部を抑えた金日成は、中国で活動した抗日武装団の一員だった。1932年頃、中国共産党に入党し、中国共産党が指導する抗日パルチザン組織の東北人民革命軍に参加した。革命軍は、中国革命に従事するための組織であったために、朝鮮独立を目指す潮流は排除されがちで、朝鮮人隊員はしばしば粛清された。金日成は粛清を免れ、朝鮮人部隊を率いるようになった。普天堡の戦いで名を知られるようになったが、国境を越えて朝鮮領内を襲撃して成功した例はほとんどなかった。それでも1940年3月には、満州の警察部隊・前田隊を事実上「全滅」させた。

しかし、日本側の帰順工作や討伐作戦により壊滅状態に陥り、1940年秋、党上部の許可を得ないまま、わずかな部下とともにソビエト連邦へ逃れた。
金日成部隊は、ソ連軍に編入され、1945年8月、ソ連軍が北緯38度線以北の朝鮮半島北部を占領すると、9月にソ連軍艦で、元山港に上陸、ソ連の力を背景とし、北朝鮮統治の中核となった。

北朝鮮は、共産主義国家であるため、以前の李氏朝鮮などは否定する立場であり、そのため国家の歴史は1945年の日本の敗戦から始まる。そのためもあり、抗日戦争は、実際以上に誇張されている傾向がある。また、「日本陸軍士官学校を出ている、」「義兵闘争のころから1920年代まで活躍した、」「縮地の法を使い、白馬に乗って野山を駆けた、」「白頭山を根城にして日本軍と戦った、」などの、複数の人物がモデルとされる話を、金日成一人の伝説とし、その後しだいに神格化されていった。

大韓民国の初代大統領になった李承晩は、李氏朝鮮の王族の流れを持つ、没落両班出身である。1896年に設立された親日派の独立協会にも参加した。しかし親露派の高宗により独立協会は解散させられ、李承晩も1904年まで投獄された。

日露戦争の勃発後、日本が勢力を拡大する中、高宗は、李承晩を釈放し、アメリカの援助を求めるためアメリカに派遣した。しかしアメリカを始めとした列強各国は、すでに日韓併合の方向に動いており、その企ては失敗に終わった。李承晩はそのままアメリカに残り、その留学中の1910年に、日本と大韓帝国の間で締結された日韓併合条約により、大韓帝国は大日本帝国に併合されることとなる。

1911年、日本領となった朝鮮半島へ戻り、ソウルのキリスト教青年会で宣教活動についたが、寺内正毅朝鮮総督暗殺未遂事件の関与を疑われ、再び渡米し、ハワイに居を構え、学校職員として勤務した。

1919年4月、上海で「大韓民国臨時政府」が結成されると、臨時政府大統領となった。李承晩は、それまでほぼ無名であったが、留学時にアメリカ合衆国のウィルソン大統領と人脈があると考えられ、さらにかつての大韓帝国皇帝、高宗とも繋がりがあることからとされている。
しかし臨時政府は内紛が絶えず、李承晩は弾劾を受け大統領職も追われ、以降はアメリカでのロビー活動に専念する。大戦中も、朝鮮の連合国入りを求めたが、日韓併合を有効と考えるアメリカ初めとした列強各国は、それに同調することは無かった。

1945年8月、日本が降伏すると、ヤルタ協定に基づき、朝鮮半島は北緯38度線を境界に、北部はソ連軍、南部はアメリカ軍による連合国軍政下に置かれることとなった。
李承晩は、アメリカでのロビー活動によってアメリカ国内では関係者に知られる存在となっていた。また反共統一を掲げ、他の勢力とは違い、アメリカ軍政を容認していた。

李承晩は、日本統治時代に朝鮮国内で独立運動を行ったことは殆ど無く、地盤も基盤も富も持ち合わせていなかった。これを支えたのが湖南財閥と、それが中心になって組織された韓国民主党だった。また他の反日右派の勢力を恐れた、日本統治時代の対日協力者が李承晩の支持基盤となった。

このようなことから、アメリカ軍政庁は李承晩を支持し、その下に政府準備組織の「独立促成中央協議会」を発足させ、その後の1948年、大韓民国が建てられ李承晩が初代大統領になった。

結局朝鮮半島は、日本の敗戦による権力の空白に乗じ、半島内の多くの朝鮮系日本人をおしのけ、北部は中国軍として戦いソ連に逃げていた金日成が、ソ連の力を背景に朝鮮民主主義人民共和国を建て、南部は、朝鮮半島内にはほとんどいなかった李承晩が、アメリカの力を背景に大韓民国を建てた。南北ともに、連合国側の戦勝国として国際的に認められることもなく、日本軍と戦い独立を勝ち得たわけでもなく、ソ連とアメリカの力による「タナボタ」の独立ということができる。