1、朝日新聞の脳内妄想から始まった

朝日新聞は、日中戦争、太平洋戦争中は主戦論を主張し、他紙と同様、戦争翼賛報道を行っていた。しかし、第二次世界大戦終結以後は体制が一新され、次第に左傾化していった。

戦前は、朝鮮人による日本への密航や、さらに朝鮮人労働者が高収入を得ていたという報道を頻繁に行っていたが、戦後は、北朝鮮をユートピアと礼賛し、在日朝鮮人は強制連行されたものであるという報道を行い始め、北朝鮮への帰還事業を積極的に支持し、多くの朝鮮人を北朝鮮の「地獄」に送り返した。

朝日新聞の左翼的な言動は、反体制的なクォリティーペーパーとして、その後の60年安保時代への左翼運動の高まりとともに広く支持されていった。

このような時期、吉田清治は苦しい生活を送っていた。吉田は、戦後共産党から市会議員に立候補したが落選、その後下関市で肥料会社を興し、朝鮮戦争の特需もあり一時期は羽振りがよかった。しかし、10数年後には会社をたたんで生活が苦しくなり、そのような中で原稿用紙を買ってきては週刊誌に投稿するなど執筆活動を行っていた。

吉田は、1977年、著書『朝鮮人慰安婦と日本人』を執筆し、それが左翼の間で多少評判になり、講演活動も行うようになっていた。もともと詐話癖があり、それまでも、自分の経歴などもさまざまに詐称していたが、ばれることもなかった。講演でも、相手が望むように物語を膨らませれば、みんなが喜んでくれた。

1982年9月、朝日新聞の清田治史は、この講演の噂を聞き吉田を取材した。清田は、朝日新聞の社会面に「朝鮮の女性、私も連行」という見出しで、「済州島で一週間に200人の若い朝鮮人女性を狩りだした、」等の「従軍慰安婦狩り、」について具体的に証言した吉田の講演内容を扱った記事を書いた。本来であれば、済州島での裏付け取材が必要だったが、戦前を全否定する朝日新聞の社風の中で、清田にとっては裏付けの必要などない「真実」に思えたのだろう。

この記事は、戦前の日本の「侵略戦争」を「非人間的な悪行」としたい左翼勢力を中心に大きな反響があった。そのような反響を受けて、さらに清田は、翌年の1983年11月に、吉田を取り上げ、「朝鮮人を強制連行した謝罪碑を、韓国に建てる吉田清治さん、」とのキャプションを付け紹介した。

吉田も、天下の大新聞に大きく取り上げられることに舞い上がっていたようで、「国家による人狩り、としかいいようのない徴用が歴史のヤミに葬られようとしている。戦争責任を明確にしない民族は、再び同じ過ちを繰り返すのではないでしょうか」と、左翼受けする、詐話を、さらに拡大展開した。

しかし、この済州島での「従軍慰安婦狩り」に対しては疑義を持つものも多かった。地元の済州新聞もそのような事実はないとした記事を上げたりもしていた。しかし、それでも清田は、自分の記事の検証をすることもなく、裏付け取材を行うこともなく、あとを後輩の植村隆に託し、とりあえず、この件からは身を引き、後に朝日新聞の取締役西部本社代表にまで上り詰めた。

2、バトンは人権派弁護士にわたった

1991年、植村隆は慰安婦関係の取材を始めた。この取材時に、韓国の慰安婦支援団体で「太平洋戦争犠牲者遺族会」の会長の娘と出会い結婚した。この団体は、慰安婦や徴用工、女子挺身隊らの補償金を、日本から支払わせるべく活動している団体だった。

戦前の朝鮮半島での日本の「非人間的な支配」を信じる植村は、この団体に一定のシンパシーを感じていた。また自分の義母がその団体の会長で、それを支援することは、「非人間的な支配」をした日本の、日本人としての贖罪の気持ちもあったのかもしれない。

その年の8月、植村は、「連行され、」「売春を強いられた、」慰安婦の記事を掲載した。その記事は、「女子挺身隊の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた朝鮮人従軍慰安婦、」「思い出すと今も涙、」「体験をひた隠しにしてきた彼女らの重い口が、戦後半世紀近くたってやっと開き始めた、」とするものだった。

しかし、この女性は義父に40円でキーセンとして売られ、そこから中国の慰安所に連れていかれ慰安婦にされたということで、それは、挺対協が行った聞き取り調査のテープからのものだった。この親に売られた女性が、騙されて慰安婦にされたことはまぎれもない事実だったが、売ったのは朝鮮人の義父で、中国の慰安所に騙して連れて行ったのも朝鮮人だった。これでは「悪逆非道な日本、」とはならず、また上村は、義母の日本へ補償を求める裁判上もまずいと考えたのだろう、不都合な事実を伏せた。

この植村の記事は、大きな反響を呼んだ。それは日本だけではなく、韓国のメディアも、以前の清田の吉田証言の記事とともに報じ、韓国では日本への批判が高まった。韓国の報道を朝日新聞が再度取り上げ、それをまた韓国のメディアが取り上げると言うことがたびたび行われ、マッチポンプ状態で1990年代後半には国際社会へと拡散していった。

これに目をつけたのが、当時野心にあふれた新進気鋭の人権派女性弁護士として売り出し中の福島瑞穂だった。この当時、高木健一が中心となり、インドネシア慰安婦と、日本軍補助兵の、対日補償請求運動の支援を行なっていたが、インドネシア政府は、その独立の際に、旧日本軍の残存部隊が大いに活躍したことなどもあり、親日的で、高木らが旧日本軍を「悪逆非道」とする企てには協力的とはいえなかった。

高木らのもくろみでは、アジア地区で、補助兵や徴用工、慰安婦として駆り出されたものたちは膨大な数にのぼり、日本の敗戦のドサクサの中で、彼らに対して充分な補償がされていないことは容易に推測できた。一人当たり200万円の補償としても、その金額は膨大なもので、高木らの元に入る弁護費用も莫大な金額になると考えられた。

高木の仲間うちでは、外地で慰安婦として働いていた日本人女性の話も出たが、高木にとって、日本人は「加害者」でなければならず、旧日本軍は「悪逆非道」でなければならなかった。また当時出ていた、北朝鮮による拉致被害者問題なども、自分たちがシンパシーを持っている北朝鮮が「加害者」であることなどは信じられず論外の話だった。

高木や福島にとって、吉田清二の「朝鮮人慰安婦狩り、」の話や、朝日新聞の清田や植村が切り開いた「朝鮮半島への道、」は魅力的だった。 福島は植村とコンタクトをとり、韓国内の慰安婦の証言集めを始めた。

3、韓国は成り立ちから反日だった

韓国は、太平洋戦争時には日本であり、朴正煕元大統領がそうであったように、日本軍として戦ったものも多かった。また国民の多くも、女子挺身隊などの勤労動員で、日本人として、太平洋戦争を戦った。しかし日本の敗戦により、朝鮮半島から日本の勢力は一掃され、アメリカを後ろ盾にし、38度線以南に、李承晩を大統領とした、大韓民国が樹立された。

しかしその独立は自ずからが勝ち取ったものとは言いがたく、連合国側からも戦勝国としては認められず「第三国」として扱われた。この脆弱な国の成り立ちから、李承晩は、徹底した反日政策で、悪逆非道な日本軍から祖国を解放したとするしかなかった。

日本の陸軍士官学校を出て、日本軍として戦った朴正煕が大統領になると、日本は韓国と「日韓基本条約」を結んだ。日本が韓国に賠償金に変わる多額の資金援助をすることで「両国間の財産、請求権一切の完全かつ最終的な解決、」がなされた。この日本の資金援助により、韓国はインフラ整備を行い「ハンガンの奇跡」を起こし、飛躍的な経済成長をはたした。しかし、この日本からの多額の援助については一般に公表されることはなく、またこの資金援助には、徴用工や慰安婦などへの補償も入っていることももちろん公にされることはなかった。

その後、軍政時代が終わり、共和制となったが、李承晩時代からの反日教育は継続されており、国民の目をそらすため、あるいは大統領自身の人気取りのために、「反日」が度々使われ、それは、韓国の国是といっても良いものになっていた。

韓国人の日本人に対するすさまじい憎悪は、まさに反日教育の成果といえる。韓国の教科書では、記述の大半が日韓併合以後の記述で占められ、国内の併合を進めた韓国人を親日派、売国奴として切捨て、併合中の日本の功績にはほとんど触れず、「いかに悪逆非道な日本と戦ったか、」に重きをおいて教育している。近年の韓国では、世代交代により戦前の状況や制度など当時のことをよく知らない世代が多くなっており、反日教育がそのまま人格形成にも及び、慰安婦問題や竹島問題などでは、逆に国民が圧力をかけ国家政策に影響を及ぼしている状況が生まれている。

1987年には、反日を象徴する設備として、韓国独立記念館が建設された。史実とは言いがたい、一方的な歴史認識によるもので、特に日本軍による拷問蝋人形は、見世物小屋やお化け屋敷さながらで、これでもかと反日感情を煽る。また韓国の独立は、日本の敗戦により、アメリカの後ろ盾を得て38度線以南に、アメリカと旧ソ連の妥協のもとに建国されたもののはずだが、国内外の独立運動によって、韓国は独立したという結論になっている。国を象徴する独立記念館が、歴史をねじ曲げ、都合の良い物語を作るための、お化け屋敷になっている。

阪神大震災や東日本大震災の際には、多くの韓国人が「天罰だ、」と歓喜するなど、日本が不幸や天災に見舞われるたびに国を挙げて大喜びをする傾向にある。また、2011年のサッカー日韓戦以来、それまでは問題となっていなかった日本の旭日旗が、「ナチスのハーケンクロイツと同じ戦犯旗」として、いたるところで、反日の象徴として抗議がおこなわれたりしている。

これらは、韓国における反日教育が、日本統治時代のインフラ整備や近代化への貢献や、大戦後の日本の様々な経済協力など、真実の歴史を見る目を若者から奪い、日韓両国の親善を決定的に阻害している。韓国における反日は、社会病理ともいえるもので、その根深さと深刻さの度合いは、極めて危険な水準に達している。