④捻じ曲げられた慰安婦証言

高木健一や、福島瑞穂にとって、反日感情の強い韓国は、「悪逆非道な日本軍、」を広めるうえで好都合であり、また韓国内には北朝鮮と関わりのある団体も多く、挺対協もそのような団体だった。福島はすぐに連絡を取り、朝日新聞の植村が取材した金学順を引き出すことに成功した。

朝日新聞の植村が「体験をひた隠しにしてきた彼女らの重い口が、戦後半世紀近くたってやっと開き始めた、」との記事を載せたその1991年の12月、福島は、裁判を起こすべく金学順を日本に連れてきてメディアに売り込んだ。戦後50年を控え、社会党の土井たか子のマドンナ旋風が吹き、女性の人権などが盛んに取り上げられていた時期で、メディア各社はこれに飛びついた。

金学順が裁判で訴えたかったことは、「軍による強制連行」ではなかった。慰安所では支払いが「軍票」で行われ、日本の敗戦により紙くず同様になった軍票分を支払ってほしいというものだった。金学順は、朝鮮人の義父に40円でキーセン学校に売られ、キーセン学校の養父に慰安所に売られ、慰安婦とされたのだが、福島はそれを「強制連行」され、慰安所で無理やり日本兵の相手をさせられた、と事実を捻じ曲げた。

また福島や高木のターゲットは実は慰安婦の補償ではなかった。慰安婦は探し出してもその数はたかが知れていた。真のターゲットは高木がインドネシアで試みていたように、慰安婦の何十倍もいるはずの徴用工だった。これを裁判に持ち込めれば、兆単位の金が動く可能性があり、弁護士に入る訴訟費用も莫大な金額になるはずだった。

⑤火のないところに火をつける

高木健一が中心となっていたインドネシアの補償問題では、インドネシア政府は、1992年、「慰安婦問題について過大視しない、」「韓国が日本に対して行ったような要求も出すつもりもない、」と声明を発表した。しかし高木はそれでも地元紙に「200万円の補償が出る」と広告を出し、約2万人の自称元慰安婦を集めた。

これに対してインドネシアタイムスの会長は取材に応じ、「ばかばかしい、インドネシアにいた2万人の日本兵一人ひとりに慰安婦がいたというのか」「我々には、日本罵倒体質の韓国や中国と違って歴史とプライドがある。お金をくれなどとは、360年間、わが国を支配したオランダにだって要求しない」と話した。

村山政権の時の1996年、日本政府がインドネシアに対して、元慰安婦を含む高齢者の福祉事業のために3億8千万円を拠出することになった。インドネシアはこの申し出を受けたが、それまでの高木ら日本の共産党、朝日新聞、日弁連の動きに対して腹に据えかねていたようで、「インドネシア政府は、この問題で補償を要求したことはない、」「日本との補償問題は1958年の協定により完結している、」と声明を出した。

またインドネシアのある閣僚は「今回の事件の発端は日本側だ。悪質きわまりない。だが、我々は日本人を取り締まることはできない。インドネシアの恥部ばかり報じてインドネシア民族の名誉を傷つけ、両国の友好関係を損なうような日本人グループがいることが明白になった。あなた方日本人の手で何とかしてください」と語った。

日本でも、高木ら「人権派弁護士」のこのような動きに対して、「自作自演」「火のない所に煙を立てて回っている」「慰安婦を食い物にしている」と非難している者も多い。結局、高木らのインドネシアでの企ては失敗に終わった。

この慰安婦問題の運動は、「日本帝国主義、軍国主義の被害者を地の果てまでも出かけて探し出し、訴訟など考えもしなかった当事者に、原告になるよう説得し、訴訟を通じて事実をつくり出す」「被害者がいてそれを支える運動ではなく、反日運動のため被害者を見つけ出して利用する」ものであったが、それはその後も韓国で続くことになる。

この当時の日本の政治状況は、消費税導入とリクルート事件などの影響で、1989年の参院選では、土井たか子を党首とする社会党が、改選議席の倍以上を獲得した。また翌年の衆院選でも社会党は大きく票を伸ばした。しかし社会党の勢力拡大に危機感を持った民社党や公明党が社会党から距離を置き始め、1991年の統一地方選では社会党は敗北するなど、政情は極めて流動的だった。政界はその後、日本新党、新党さきがけ、新進党、民主党、社民党、自由党などが入り乱れ、合従連衡を繰り返しながら1990年代後半に入って行く。

このような、日本の政情の混乱は、慰安婦問題を取り上げる勢力にとっては好都合だった。特に、社会党代表の土井たか子のもとでのマドンナ旋風は、フェミニズムを抬頭させ、その勢力が福島瑞穂らとともに、慰安婦問題を大きく取り上げるようになった。

⑥韓国の慰安婦支援は詐欺

1982年に朝日新聞の清田治史が、吉田清治の「慰安婦狩り」の記事を出した時点では、韓国では慰安婦問題はまだあまり問題にされてはいなかった。むしろ日本国内の左翼の中で、「悪逆非道の日本軍」と考えたい「脳内妄想」が一気に沸騰した。韓国で慰安婦問題が注目を集め始めたのは、1987年の民主化以降のことだ。

現在でも韓国では、「慰安婦にされた韓国女性は20万人」と、荒唐無稽な話が流布しているが、これはもともと韓国メディアが「挺身隊に動員された韓日の両国の女性は全部でおよそ20万人、そのうち韓国女性は5から7万人と推算されている」と根拠不明の記事を出したことがはじめだった。

それを、日本の毎日新聞の記者だった千田夏光が、彼の著書のなかで、「挺身隊という名のもとに彼女らは集められたのである、総計20万人が集められ、その内慰安婦にされたのは、5万人ないし7万人とされている」と記述している。それがさらにいつのまにか、20万人の韓国人慰安婦となっていった。まったく無責任な脳内妄想としか言いようが無い。

1991年からの朝日新聞の報道でも、朝鮮半島出身の慰安婦について「第2次大戦の直前から『女子挺身隊』などの名で前線に動員され、慰安所で日本軍人相手に売春させられた、」「太平洋戦争に入ると、主として朝鮮人女性を挺身隊の名で強制連行した。その人数は8万とも20万ともいわれる、」とあり、1990年に発足した韓国の挺身隊問題対策協議会、挺対協も、挺身隊が慰安婦であるかのような誤用から始まっている。

韓国は朝鮮動乱の影響か、国内に多くの親北朝鮮団体を抱えており、挺対協もその内の一つである。この挺対協と、左翼系メディアの朝日新聞、北海道新聞、そして福島瑞穂や高木健一らの「人権派弁護士」らが、火の無いところに火をつけた。特に挺対協と福島は、インドネシアでの高木の手法で、連携しながら,裁判をおこそうなどとは考えていない慰安婦を探しだし、公の場に引き出した。

挺対協と密接に連携し活動を進めていた、朝日新聞の植村の義母、梁順任が会長を務める「太平洋戦争犠牲者遺族会」は、日本統治時代の戦時動員被害者に対し、「日本政府などから補償金を受け取ってやる」と広告を出し、約3万人から、弁護士費用などの名目で会費として約1億2千万円を集めた。

その際、「動員犠牲者でなくても、当時を生きた者なら誰でも補償を受け取れる」などと嘘を言った例もあり、また会員を集めてきた者には手当を支払うなど、その手口は先物取引の勧誘のようなものだった。「遺族会」は、日韓親善サッカーの試合のスタンドに約500人の会員を動員し、日本政府に謝罪と補償を要求する横断幕を掲げるなどの活動をしていた。このような活動も警察は偽装と見ているようで、会長の梁順任と団体幹部39人が摘発された。

福島はさらに韓国政界にも火をつけて回り、慰安婦問題を対日外交カードとして積極的に使うことを働きかけ、この頃から慰安婦問題が日韓外交の場で取り上げられるようになった。

⑦妥協の産物「河野談話」

1991年には宮澤喜一が総理大臣となった。宮澤は中国や韓国との関係を重視する立場をとっており、天安門事件により日本や欧米諸国から制裁を受けていた中国を訪れ、天皇陛下の訪中を実現させ、中国への制裁を解除した。宮澤はまた、日韓間の外交問題化しつつあった慰安婦問題も穏便に解決したいと考えていた。

1992年1月、朝日新聞は「慰安所の経営に当たり、軍が関与、大発見資料、」と報道し、記事や社説では「朝鮮人女性を挺身隊の名で強制連行した」「その数は8万とも20万ともいわれる」とし、吉見義明が「軍の関与は明白であり、謝罪と補償を」というコメントを寄せた。

この発見されたとする「資料」の内容は、「軍慰安所従業婦等募集に関する件、」で、「内地においてこれの従業婦等を募集するに当り、ことさらに軍部諒解などの名儀を利用し、ために軍の威信を傷つけ、かつ一般民の誤解を招くおそれある、」から「憲兵および警察当局との連繋を密にし、軍の威信保持上ならびに社会問題じょう、遺漏、なきよう、配慮あいなしたく、」というものであった。これは、「悪質な業者が不統制に募集し、強制連行しないよう軍が関与、」していたもので「善意の関与」といえるものである。

これを「軍が関与大発見資料」「朝鮮人女性を挺身隊の名で強制連行した」「その数は8万とも20万ともいわれる」とする朝日新聞の報道には、悪意と作為が感じられる。そしてすでにこの時期には、吉田清治の「慰安婦狩り」のような強制連行はなかったことはほぼ確定されており、それにかわる「自分の意思に反して」という広義の「強制性」に置き換えていく意図があったと思われる。

この記事が出たのは宮沢総理の訪韓直前で、あわてた政府は、「お詫びと反省」の談話を発表し、首相退任直前の1993年には、韓国の慰安婦問題について河野談話を発表し謝罪の意向を表明した。河野談話は、戦後50年を控えて、これまで棘のように韓国との間で問題にされていた韓国慰安婦問題に決着をつけようとしてのものだった。当時の韓国大統領の金泳三は、交渉の過程で「日本が従軍慰安婦の強制連行を認めれば、日本に物質的な補償は求めない」と明らかにしており、日本はその線に沿って政治決着をはかるものだった。

しかし、この時期にはすでに吉田清治の暴力的に「慰安婦狩り」をしたとの証言は虚偽であることがすでにほぼ確定しており、また軍による強制連行が行われたとする証拠も出てこなかった。結局、元慰安婦と名乗る女性たちの証言が唯一のもので、それの裏付け調査もない全く杜撰なものだった。そして最終的には韓国側で文言調整がされたものを、日本は受け入れた。しかし河野談話は、結果として慰安婦問題をさらにこじらせることになった。

宮澤内閣は、消費税問題とリクルート問題で退陣に追い込まれ、自民党は野党に転落し、政界はその後、日本新党、新党さきがけ、新進党、民主党、社民党、自由党などが入り乱れ、合従連衡を繰り返し、1994年に村山内閣が成立した。